【小説】グッバイ・ラッシュアワー
朝のラッシュアワーの電車に揺られながら、漫然とした眠気にうとうとして、人混みの中でいつもの息苦しさを覚える。
意識をスマホに向けて、ただ今日も社畜へと続く駅まで、じっと耐える。
慣れた平日の一コマで、それが日々の始まりだ。
もう自分が疲れていることさえ、日常と化して、当たり前のものとして受け止めている。小学生の時、はじめて通勤時間帯に乗車した際に、こうはなりたくないサラリーマンに成り下がっていることに対する抵抗もいまやない。
ただ、生きていて、昨日のこと、一週間前のこと、一ヶ月前のこと、一年前のことがうすっぺらく記憶ににじんでいき、他の記憶とまざって、うまく思い出せなくなっていく。
社会人になって十年たった。
見た目は老けていないつもりだ。
けれど心は驚くほど年老いている。
この前ふいにとられた写真に浮かぶ笑顔のなんと不自然なことか。
不安定な表情。
うまく笑えないその顔はどこか迷子を思わせる。
そうだなと、皮肉気な笑みが浮かぶ。
そんな表情ばかりうまくなる。
俺はいつのまにか人生において迷子になっているのかもしれない。
電車の扉が開かれ、人混みに流されるように外へ出る。
そしてそのまま電車は扉をしめ、次の駅へと向かっていく。
会社の最寄り駅はまだ先だ。
けれどなぜか今更、つぎの電車を待つ気がしなかった。
そのまま、改札へと足がすすむ。
ネクタイをゆるめる手を止める気がしない。
改札を抜けて、駅舎をでると、目前には海が広がっていた。
それをみたら、もう駆け出さずにはいられない。
心のどこか冷静な部分は自分の行動に対してブレーキをかけようとする。正しい元いた道へ戻れと呼びかける。ネクタイを締めなおし、今脱いだ革靴と靴下をはきなおせといってくる。
クソくらえだった。
「――ぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!!!ああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!ぁああぁあぁあっ……!!!!!!!!!!!」
絞り出すように喉から声を響かせ、声をからしながら叫ぶ。
叫ばずにはいられなかった。
すり減ってすり減って、いずれすり減るものもなくなって、ただこの世界からいなくなるのはたまらなく嫌だ。
俺はここにいる。
ここにいるのだ。
誰の記憶にもとどまらず、自分自身の記憶も曖昧にしながら、生きていくのはもういやだ。
俺は俺の全存在をかけて俺を肯定しなくてはならない。
どこかに彷徨って消えてなんていられない。
これは反戦の狼煙だ。
この世界で自分をつかみとる宣言だ。
当たり前の常識という悪魔が自分を食い尽くすというなら、理性に基づいた非常識でかならずこの世界で成り上がってやる。
たかがはずれたように思考が拡散する。
根拠があるわけでなく、ただ狂気に彩られたように思える自分自身の行動と思考を。
それでもそれを明日への一歩として、その日、俺は覚悟した。