バスと私とゴールデンタイム
先頭座席に座る息子がふらふらと危なっかしい。
ゆらゆらと揺れるバスの中で、彼が落ちやしないかと注意しなくてはならない。
バスの先頭座席は少し高くなっていて、子どもにとっては窓ガラスも大きくて、見通しがよく、まるでロボットのコクピットの中の様な気持ちになるのかもしれない。
家までの短い距離を自分の足では見る事の出来ない速度で駆け巡る景色に目をキラキラとさせる。
させるのはいいけど、テンションを高くして、声を大きく上げるのは勘弁してもらいたい。
ちょうど反対側の座席に座る仕事帰りのサラリーマンの眉間にシワがよっている様で、少しヒヤヒヤした。
うつむきながら、喉がピクピクしているので、もしかしたら少し気分が悪いのかもしれない。
丘の上を走るこのバス道は人によれば気分のいいものではないかもしれないからね。
だけどわが息子はどうやらそういった上下左右に揺れる振動までがお気に入りらしく、ご満悦のようだ。
仕事帰りに子どもを保育園から引き取って、我が家へと向かうこの時間は疲れてはいるけど、嫌ではない。
仕事で凝り固まった気持ちを息子が自然体にほどいてくれるからだというのは分かってる。
子どもだから手は掛かるけど、それが私に小さな幸せをくれるのだ。
こうやって少し騒いだり、挙動が活発だったりすると、周りの人に迷惑がかかって、それは困るんだけど、それでもだ。
おかしな話だと思う。
彼が産まれた頃はそんな事思わなかったのに。
出産して赤ん坊を抱えた時は不安な事しかなかった。
ようやく面白さを感じ始めた仕事を休業して、不慣れな子育てを始めなくてはいけなくて、社会人の新人時代を終えたと思ったら、今度はお母さんとして1年生のスタートだ。
地元ではない土地で暮らしているので、身近に助けてくれる親族や友達もいなくて、なのに息子は関係なく、ひっきりなしに泣き叫び私を呼ぶのだ。
なんとかあやしても、少したてばまた泣き出して、だっこして、お乳をあげて、おしめをかえたり、お風呂にいれて、全てひっきりなしだ。
問答無用で力の限り、こちらに向かってくる息子に嫌気がさしてくる時もあった。
耐えられないと思いながら、帰りの遅い旦那に当り散らし、毎日、息子との格闘を終えて、落ちるように眠ってはゾンビのように起きあがる日々だった。
しばらくして、休業していた職場からの仕事復帰のお願いがあり、うまく保育園の選考も通る事ができた。
慣れた仕事に戻ることができて、不慣れなお母さん業から少し離れる事もでき、「ほっ」とする事ができる。
けど、不思議とそう思うことはできなかった。
結局、仕事に戻っても息子のことばかり考えている自分がいた。
気になって気になって仕方ないのである。
仕事場でのやり取りや人間関係の中で、組織をまとめながら、仕事をしていく事にやりがいがなくなった訳じゃないけど。
でも、私はあの息子との一対一の毎日が真剣勝負で、どこまでも私を必要としてくれる、切実なまでの存在が発する熱量にほだされてしまったのだ。
今は仕事はフルではなく、パートでまかなっている。許せる限りは今は息子といたいからだ。
時に息子のパワーに負けそうになる時があるけれど、それでもこんな風に私を必要としてくれる時期は限られている。
私は自分の人生の中で、今、もっとも人に必要とされている。
そしてその私からの愛を一身に受ける存在がいる。
断言しよう。
今が一番、私は男に愛されている。
これ程重く、胸がつまる幸せってない。
私にとって今はゴールデンタイム。
もっとも輝かしい青春の日々だ。