バスと自分と企業人の一生
バスの揺れが手すりから伝わり、よろけないよう少し力を入れる。
あがりづらくなった肩を意識して、視界が少し下にうつり、酒の臭いのする男をみる。
年の割りには、ラフなかっこうをした男でこの時間から酒が飲める仕事としたら、自分のようなサラリーマンとは違った仕事になるのだろう。
サラリーマンといっても、もう還暦を超えて、嘱託扱いになった身ではあるが、今もスーツを着て働いている。
働くのに困るほどお金がないわけじゃないが、働く事を辞められずにいる。
仕事は調達一筋でかれこれ40年以上の月日を働かせてもらった。
はじめの十年くらいは国内を中心に取引先と折衝を行い、関係各所、特に技術部と協議を行いながら、品質の高い製品を低コストで、仕入れられるよう励んでいた。その為に取引先を選定して協賛企業をつくり、今でいうWin-Winの関係作りに勤しんでいた。
会社が海外へとマーケットをうつしていったのち、自分は北米や東南アジアといった新たな工場の建設に伴う、サプライヤー探しに奮闘した。
それから管理職になり、国内に舞い戻り、海外と国内のサプライヤーから、一括できる材料商材の選定をすすめ、コストをさらにカットしていった。
年齢が五十にさしかかった頃には関連子会社に出向扱いとなり、そこの統括部長として購買品のサプライヤーや社内の調整外注先の発掘と関係性強化を行った。
そして今はアドバイザーとして、その子会社で嘱託として勤務している。
折衝や交渉事など、新規開拓で困っている場合、自分が出向いて話をまとめている。
元部下たちは頼りなく、いつになったら独り立ちするのかと、情けなく思っていた。
しかしその一方で自分につきつけられた課題が浮上している。
子会社にうつり十年以上経ち、今だ重要な案件について、自分がたちまわらなくては成立しないというその事実だ。
自分はこれでも勤め先に対して誠実に仕事をしてきたつもりだし、実績も出し続けたつもりだ。
だが、それはあくまで実務者としてだ。
管理職としてではない。
ようは自分は管理職として当然な人を育てるといった仕事が出来ていなかったという事だ。人に任すより、自分で解決する方法を選ぶ。自分はそういう人間だ。
そしてその事が今の子会社に対して大きな問題として定義づけられている。
思えば五十になったころ元いた会社の調達部門長、トップへの人事で私は敗れ子会社へと出向となった。あの頃、ライバル候補であった男よりも実績のあった自分を昇進させなかった事に憤りを覚えたものだ。
きっと上は自分が出世する事で、自分達の地位を脅かす存在になるに違いないと考えたのだと、そのころは思っていた。
そんな奴らの方針で腐るわけにはいかず、自分は子会社でも実績をあげ、いつか返り咲く事を虎視眈々と狙っていた。前以上に仕事に対して精を出していたのだ。
それが間違っていたとも露しらず。
どんなに優秀な人間でもいつか会社を去ることになる。
そして誰かが去っても会社は残るのだ。
その事を自分は分かっていなかった。
自分にとっての実績をあげることより、部下の実績をあげることにもっと注視しなくてはいけなかった。自分を信じるより先に他人を信じていかなくてはいけなかったのだ。
それはきれいごとでもなんでもなく、そうやって組織というのはまわっていくからだ。
男にとって、特に自分のような世代は仕事が人生だという人間が多いだろう。
自分もその一人だ。
この年になり、人生を振り返ることになる。
企業人として【今】ばかりをみて、【未来】をみてこなかったということを。
人生とはなにかを残すことである。
もう取り返しのつかないことが自分の【過去】にはある。
あの頃、気づけばというタイミングが今になって、いくつも思い出させる。
人生の岐路にいたあの頃に、その選択肢が自分の視界にはいっていればと思わずにはいられない。
これを人は後悔と呼ぶ。
だが、自分はまだ運がいい。
その後悔で学んだ事を後世に残す事ができる。
企業人として今度こそ、人に残したい。
自分の子を為すのだ。
不器用になってもかまない。
そうやって自らの歩いた道をしっかりと譲っていき、企業人としての人生を全うしたい。
今、自分はそれを生き甲斐として生きている。