バスとアタシと母親
35歳になった。
子どもを二人授かって、長男は小学校高学年となり、体も大きくなって、もう体力的にはかなわない。長女はまだ小学校低学年だが、親のアタシがいうのもなんだが、利発な子でこちらのほうがバカみたいに思えるときがある。
一番手のかかる時期を脱したので、アタシはパートに出ている。
今はパート先であるスーパーからの帰りだ。
このバスに揺られている時間が唯一、アタシが一人物思いにふける時になる。
アタシは23で結婚して、24で長男を産んだ。
そこからこの年まであっというまだった。
23からだから、ちょうどその年齢だった時の半生くらいの時は流れた事になるけれど、経ってしまえばすぐの話になる。きっと子どもが受験して、成人して、就職して、結婚して、なんていう人生のライフサイクルが過ぎ去るのも早く感じていくことになるのだろう。
子ども達との事を思い出すと、その時々に応じて思う事はたくさんあれど、過ぎ去ってしまえばそんなものだ。
アタシは別に今、これから先の想定される未来を嫌がっている訳ではない。
そうであってほしいと心から願っている。
ただ、思ったよりも平凡な人生を歩んでいるから、自分の人生をみつめなおしたくなるだけだ。
アタシには昔、戸籍がなかった。
母親はある人物の愛人で、身ごもってはいけない子を身ごもってしまった。
それがアタシだ。
父親は政財界に強い影響力をもつ人だと聞いていたが、具体的なことをアタシは知らない。
母親は当時、堕ろす事もできず、大きくなっていくお腹を隠しながら、不安を抱えたまま眠れない日々を過ごしたらしい。ごまかしきれなくなってきた母親は妊娠した体で遠くに逃げ、偽名で借りていたビジネスホテルの風呂場でアタシを産み落とした様だ。
赤ん坊を抱えた母親はその後、一人自分の住むべき場所をみつける為、放浪して、一つのアパートに辿り着き、そこでなんとか暮らせるようになった。
そのアパートのオーナーが趣味でやっているラウンジで働かせてもらい、生活費を稼いでいたようだ。
この頃アタシは3歳になっていたが、ほとんど一人でいたように思う。
アパートのオーナーがたまに様子をみてきてくれたようだが、アタシのぼんやりとした当時の記憶の中では、オーナーの存在はなくて、母親とアタシ以外の人間の記憶はない。
よく母親が死んだように眠っていた記憶だけが残っている。呼吸も浅い人だったので、抱きついて心臓の音を確認して、ほっとしていた気持ちを今でも忘れずに覚えている。
アタシが7歳の頃、母親に恋人ができた。
それまでも何人かそれらしい人はいたのだが、その全てはうまくいかず、母親が子どものようにアタシに抱きつき泣いていたのを覚えている。
今度の人は違うといって、その人の好きな食べ物が食卓に並ぶ事が多かった。
やきそばやお好み焼きなどの粉物が多かったように思う。
ある時から、その恋人がいりびたるようになり、二人だけだった空間が三人になった。
タバコをよく吸う人で、吸殻をカップラーメンの汁で消すような人だった。
タバコとインスタント食品の臭いがまじりあい、すえた鼻の奥に残る嫌な感じが部屋に充満していた。
アタシはいつも競馬新聞を片手にしているその男がとても苦手だったように思える。
でも、母親はその男の事がとても好きなようで、よく尽くしていた。
その人とは結局1年は続いたと記憶している。
最後のほうは喧嘩が耐えなくて、ずっとお金の話をしていた。
母親はその男のギャンブルで失ったお金を補填する形で、ほうぼうにお金を借りてしまっていたようだ。
決定的になったのはアタシが喘息を発症して、それでも男がタバコを吸い続けたのが原因で母親はとうとうその男を家から追い出してしまった。男と別れた日は母親の大きな泣き声が耳に痛かった。
元々余裕のなかった暮らしは男、と暮らした1年で膨らんだ借金のせいで、苦しくなった。その上、アタシが喘息になってしまい、薬をどこからか入手し続けてくる必要があった。戸籍のないアタシには健康保険もないので、普通に病院にかかる訳もいかなくて、その分のお金も稼がなくてはならない。
その為、母親はアルバイトの数を増やし、昼夜問わず働いた。
この頃、ほとんど母親と話した記憶がなく、アタシは喘息だけじゃなくて、人と話す事がなかったので、うまく声を発する事が出来なかった。
そうこうしている内に母親が倒れた。
過労だ。
状況は絶望的で、母親はこの頃、死ぬ事を考えていたようだ。
でもそういう一番辛い時には助けが入るようで、母親に対して求婚を申し込んできた男性がいた。
その人は細い体をしていて、優しげで体が弱そうな顔をした人だった。
ラウンジの常連さんがたまに連れてくる人だった様で、母親よりも若い実直なサラリーマンだった。
母親は当初その申し出を断っていたのだが、意外と押しの強い男性に寄り切られ、何度かデートをする事になって、結婚する事になった。
9歳になる頃、アタシはこの男性と出会った。
この人はアタシが無戸籍で、母親が危険な父親から逃げてきた事を知った上で、アタシの事を娘にしたのだ。9年遅れの出生届が受理され、アタシはようやく苗字と名前というものが与えられた。
小学校に通い、義務教育課程でおいつけていなかった勉強もこの男性にみてもらっていた。話し方や常識みたいなものを教えてくれた初めての大人だった。
ただ、男性は当初、アタシにとても厳しかった。
前の彼氏はアタシに甘く、すぐにパチンコであてたお菓子やぬいぐるみをくれるような人だったので、アタシは大人に直接、怒られた経験がなく、よく泣いた。
それでも許してくれず、勉強や運動を毎日課せられる日々だった。
男性がどんなに遅く帰ってきても、あたしの連絡帳には必ず、文章や漢字の間違いが書かれていたし、与えられた宿題に対してもしっかり採点されていた。毎日一日もかかさず、何度アタシが間違えても繰り返し繰り返し、付き合ってくれた。
とても優しい人だったのだ。
人間として、まともな教育を受けていなかったアタシをなんとかすくい上げようと、いつもアタシの前に手を伸ばしてくれていた。
今のアタシがあるのはこの男性のおかげだ。
なんとか中学にあがる頃には周りの学力に追いつき、運動して体力もついて喘息もおさまっていた。
でも、アタシの母親という奴はどうしようもない人間で、アタシがそこそこいい公立高校に受かった時に浮気をした。男性――アタシの恩人はひどく傷ついたのだが、それを咎めはしなかった。そのかわりアタシがひどく怒ったのだ。
母親は許しをこいて泣いて謝った。こんな事は二度としない、出来心だったと。
恩人が母親をせめなかったので、アタシはそれ以上せめる訳にもいかず、「こういう事をもう二度としないで」というだけにとどめた。
それが間違いだった。
母親はまた、浮気をしたのだ。
今度はそっちが本命になった。
母親と恩人は何度かの話し合いのもと、別れる事になった。
アタシが高校3年生の頃だ。
アタシは思いつく限りの言葉で母親をなじり、罵詈雑言が尽きる事なく、攻めに攻めた。
母親は、はじめは謝り、何度も謝罪し、土下座までしたがアタシは許さなかった。許せるはずがなかった。
「一体だれが前の彼氏との間に出来た借金を返して、こんな面倒な子どものいる女と結婚して、その上、家庭的で教養もあって、こんなに家族に尽くしてくれる人なんていないのに、絶対あんたは後悔する! あんたなんかにどれだけもったいない人だったかわかってない!」
その言葉で母親から表情が消えた。
そしてこういったのだ。
「そんなことは望んでいない」
尽くして欲しいなんて思ってない。あなたは私と違ってかしこいから、あの人の話についていけるんでしょうけど、私にとっては彼のいっている言葉の半分以上理解できない。そんな訳のわからない話をされて面白い訳がないし、楽しくなんてない。
ただ、息がつまるだけで、全く幸せなんかじゃない。
たんたんと平坦な声で発せられたその言葉が耳にこびりついて離れない。
なにより母親がアタシを見る目を今でも忘れる事ができない。
あれは嫉妬に狂った女の目だった。
アタシは足先から全身をはいあがってくる寒気に恐怖で震えた。
そしてどうしようもなく悔しくなって、すぐに家を出た。
あれから母親とは会ってはいない。
アタシは分かってしまったのだ。
あの人は別に誰かに尽くしたい訳ではない。
ただ愛されたいだけだ。
自分にわかりやすい愛情を注いでくれるなら、それだけで満たされるのだ。
逆にそれがなければ、他の誰よりも飢えてしまう。
飢えきって、今のなんだって捨て去って、次の愛情を探し出す。
愛情というものに依存している。
そういう人なのだ。
だから、危ない男の愛人にもなるし、ギャンブル狂の男を彼氏にするし、実直な男性とも結婚をする。自分を愛してくれるから。ちやほやしてくれるからだ。
それが為されなければ、それを邪魔立てするものがあれば、たとえ娘だって、容赦しないのだろう、きっと。
ずっと疑問だった。
何故、産んだばかりのアタシを手放さなかったのだろうと。
学もなく、かつての男から逃げている時に、アタシという存在は邪魔でしかないはずだ。
だけど、その事も自分に子どもができて理由がわかった。
わかってしまったのだ。
子どもはその存在だけでも、自分の愛情そのものを捧げたくなる存在だ。
そしてそれ以上に子どもは親を求める存在だ。
それは時にとても甘美で、心を潤し、満たされる。
だから、母親はアタシを捨てなかった。
今まで男からもらっていた愛情の全てをアタシから注いでもらう為に。
そうやって自分の存在を守り続けていたのだ。
だからアタシには十分な教育を与えなかったし、母親以外の人間とは最低限しか接する事を許さなかった。幼少期のアタシにとって、母親は神にも等しい存在だった。
文字通り母親が全てだったから。
母親のぬくもりと心音だけが自分が生きていると感じられる、ただひとつのものだった。
けど、あの時感じたこの気持ちはもう全部、裏返ってしまった。
アタシは愛されていた訳じゃない。
アタシは大事にされていた訳じゃない。
ただ、ペットみたいに扱われていただけ。
自分の慰めの道具として置かれていた、ただの人形でしかなかったのだ。
ーー最近、アタシは自分が怖い。
息子も娘も大きくなってきた。手間もかからなくなってきて、これからどんどんアタシがしてあげられることも少なくなってくる事だろう。
その時にアタシが一体どう思うのかが想像できない。
アタシも母親と同じ行動をとらないと一体だれがいえるのだろう?
親離れした子どもと、家族として接する夫をみたときに、アタシはその事を寂しさの中に満足感を覚える事ができるのだろうか?
アタシは子ども時代に母親からしてもらった事が今では気持ち悪くて仕方がない。
そんなアタシがまともに親として最後までやっていけるのなんて分からない。
平凡でいたい。
当たり前の事を当たり前に感じたい。
でもそんなものはアタシの中ではとっくに破綻している。
バスはまだ帰路に向かい走っている。
その先にはお腹をすかせて待っている子ども達がいる。
彼らの事を愛している。
どうか愛しているといわせ続けほしい。
どうか、誰か、神様でもなんでもいいから、どうか、お願いします。
最後まで優しい夢をみさせて下さい。
どうか、どうか、どうか……。