ろぽん日和

気ままに雑記ブログ

バスとワイとK

小学校の同窓会が開かれる事になった。

運よく、もしくは運悪く里帰りしている時に、偶然にも二十年ぶりくらいに再会した同級生に捕まって、人付き合いを出来る限り避ける傾向がある私を矯正する為に、妻が連絡先交換を半ば強引にすすめ、今回、参加する事になった。

バスの中でゲージにはいった猫をみて、迷惑半分、和み半分でいたところ、SNSの同窓会グループから当日の参加者について、連絡がきた。

 

その中に転校したKがいた。

私の学校は2年制でクラスが変わり、Kとは1年半くらいの付き合いしかない。

だが、当時の日々を思い返せば、そこには常にKがいた。

 

Kは率直にものをいう性格をしていて、器用ではないけれど、誠実な男の子だった。

当時、登下校のピンポンダッシュが流行っていて、他人の家の玄関先のチャイムを誰かが押して、それを合図に走る。スリリングでみんな楽しんでいた。

でも、Kはこのゲームを嫌っていた。

だから、下校中に誰かが急にチャイムを押してもKは走らない。

スリリングでみんな楽しんでいたとはいったが、今思い返せば、クラスメイトの中には運動が得意で目立つ連中がその遊びを流行らせて、逆に運動が苦手な子や、危険な事をして、走らされる事に苦痛を感じていた子もいたはずだ。

でも、普通言い出せるものではない。

子どもの時は楽しいが一番にきて、善悪を指摘するのは常に大人だからだ。

だからKを面白く思わない奴も当然いて、Kはある日、標的にされた。

ピンポンダッシュができる家も、危険度があって、押せばすぐに家から飛び出してくるところがあった。特にある家は鬼瓦と呼んで差し支えないおじさんが出てきて、捕まればこっぴどく怒られ、親にも突き出され、学校にも連絡がいった。情け容赦なしの一番デンジャラスなところだ。

下校時に後方から、Kがついてくる事を見越し、ある子が鬼瓦の家でピンポンダッシュで走った。ピンポンを押すときに予備動作がなかったので、私は怒られてはかなわないと必死だった事を覚えている。

私たちはすぐ近くの横道に隠れて、Kの様子を確認した。

ちょうどKが鬼瓦の家を通り過ぎるところで、そのタイミングですごい勢いで人が出て来た。鬼瓦である。

Kは鬼瓦に捕まえられ、今日は親に明日は先生に怒られるだろうという事に同情していたのだが、一言、二言話した後、何事もなく、そのままこちらに歩いてくる。

その後、みんなはKと合流して、「なんで助かったんだ?」っと聞いた。

「俺じゃないっていった」

その言葉をいったときのKの表情を今でもよく覚えている。

まっすぐな目で当たり前の事を当たり前にいっただけだと雄弁に語っていた。

揺らぎが全くなくて、逆にみんなは揺さぶられてしまった。

暗に「俺じゃない、お前らだろ?」と問いかけられたようで、ぐーの音もでなかった。

それからKはみんなから一目置かれるようになった。

 

Kと私は近所で下校で最後まで帰りが一緒になる事が多かった。

自然会話をする機会も多くなり、家にあがりこむ事も増えてきた。

Kの家は八百屋をしていて、よく店頭にいたおじいさんに「おかえり」と声をかけられていた。

Kの家ではファミコンをしたり、外で走り回ったりしていたが、よくやっていた遊びといえば、あれだ。

野菜や果物の入っていた段ボールをカッターで加工して、鎧のようにし、剣を作った。

それでお互い力の限り殴りあうのだ。

今思うと段ボールとはいえど、目に入ったりしたら危ないし、中々危険な事をしていたのだが、Kも私もはまりにはまり、お互いの鎧越しに剣を何度もうちつけて、段ボールが何度もボロボロになるまで遊んだ。

多少、鎧の隙間に入って、痛がったり、段ボールのお互いの変形具合に笑い合ったりしていた。今考えるとなにしているんだろう? という感じだが、当時はそれが特別楽しかったのだ。

 

ある日、学校の課題で下校の歩数を数えて帰りなさいという宿題が出た。

歩数と足幅で距離を計算させる為のものなのだが、私の歩数は他の近い距離の人間と比べるとかなり少ないものだった。

その事でちゃんと歩数をはからず帰ったんじゃないかとクラスメイトから糾弾され、私は動揺してうまく説明できずにいた。

「あいつは大股で歩いてるんだ。俺はいつもついていくの大変なんだからな」

Kはそうやって私のかわりに説明してくれたのだ。

Kが話すとみんな納得して、私は自分が情けない気持ち半分、Kに対してありがたい気持ち半分という感じだった。

 

そして、今時分の冬先の事、Kは急に転校する事になった。

母親のいる街に引っ越すらしい。

その時になって初めて私はおじいさんとしかKが暮らしていない事を知った。Kは今まで両親と暮らしておらず、今度から母親と暮らすらしいという事だ。

当時の私はKのおかれている状況が複雑すぎて適切な言葉をかえせなかった。

 

Kが去ってから、数ヵ月後、年賀状がきた。

近況が書かれていて、元気にやってる事がかかれていた。

私はそれに対してもなんて返していいのか分からずに、結局、無味乾燥で社交辞令な文言の年賀状を返したように思う。

翌年、私はなんとか自分の近況を噛み砕き、下手くそな文章で年賀状をおくったが、Kからは社交辞令的な文言の年賀状しか届かなくなった。

それっきり、Kとは音沙汰がなかった。

 

今になってKの事をおもう。

Kは小学校時代、祖父の家に預けられ、孤独を感じていたんだろうか。

近所の同級生が遊びに来て、少しは気分が晴れたのだろうか。

ピンポンダッシュが嫌いなのは、いずれ迎えに来る自分の親に期待して、訪問者に裏切られ続けたせいなのだろうか。

段ボールでの戦いはそんな彼に対して、少しでもウサ晴らしになったんだろうか。

再婚した母親にひきとられ、うまくやっていけたんだろうか。

かつての友達に送った近況の手紙に、ちゃんと答えてくれなかった事に対して傷ついてはいなかったのだろうか。

馬鹿な友達の事は忘れて、新しい町でうまく生活できたのだろうか。

 

答えなどわかろうはずがない。

ただそう思ってしまう事にとても苦い思いが心を浸す。

 

私は大人になった。

当時は自分の事を『ワイ』と呼んでいたが、いつのまにか『私』となってしまった。

それだけ立場も変わって、会社では課長になったし、部下もできた。

客観的に物事を判断し、指示をするようになった。

けれど、相変わらず不器用で自分の言葉で人と話すのが得意ではない。

数少ない私の言葉を気持ちとして拾ってくれるのは妻くらいのものだろう。

ただ、不器用でも間違わないように生きていきたい。

しかし、間違わず生きていけているかどうかはわからない。

 

Kから今の私はどうみえるのだろうか。

私から今のKはどうみえるのだろうか。

 

全ては次の同窓会でわかる事だろう。

あわよくば苦味とほろ酔える日であることを願う。