バスとオイラと熱
ぼーっとした頭で視線を彷徨わせると、ちょっと好みな年上のお姉さんがいた。
バスが揺れても、すました顔は変わらず、世の中の全ての出来事については私と関係ありませんといった様な風貌だった。
仕事ができそうだけど、笑うと幼くみえそうな感じがして、それに心が打ち抜かれてしまいそうだ。
実際どんな人かは知らないけど、そうやって想像する事は自由だし、今は体が弱っていて、ふわふわと思考が展開される。
この春から大学生となり、近くの学生向けのマンションで暮らすようになって、初めての冬を迎えることになった。
地元から親に引き連れられて予算第一で大学に近いという条件の下、選ばれたマンションは古く1Kでそんなに広くはない。ただ、去年リノベーションしたばかりで内装は新しく住みやすい。
バルコニーにでる掃き出し窓も部屋一面を通るくらいに広く、南部屋で明かりも取れる。春先の暖かい光が室内一杯に差し込んで、気持ちよかった。
これは掘り出し物だという事でその後、すぐに契約したのだが。
いかんせん、アルミサッシとガラスが安物で、断熱性がなく外にいるのと変わらないくらい部屋が冷え込んだのだ。
運の悪い事にエアコンも壊れてしまい、暖をとる術が奪われ、実家から持ってきた電気ヒーター一つじゃあクソの役にも立たない。
そうこうしている内に風邪を引き、微熱がでて、それでもお金のないオイラは病院に行く事を渋っていると、みるみる悪化させて本日熱が39度を超えた。
背に腹は代えられないので、近くの内科にフラフラと歩いていったのだが、運の悪い事に休業の看板がぶら下がっていた。
それをみて意識が遠のきかけたが、倒れてしまうわけにもいかず、かすむスマホの画面をフリックしながら、遠方の病院をみつけて、今、バスに乗っている訳だ。
まだ聞き慣れない町名を運転手が読み上げるが頭に残らない。
気づかずにこのまま乗り過ごしてしまったら、オイラはこのままどうなってしまうのだろうかと考える。
そうすると急に心細くなるのだ。
一人暮らしをして親元から離れ、寂しいと思った事はないが、やっぱり人間弱った時は誰かに頼りたくなる。今なら口うるさい母親の事をババアとは呼ばず、お母様と呼ぶ自信がオイラにはある。
照れ隠しなく感謝しかしないはずだ。
結局のところ、この町に引っ越してそれなりにたつけど、こういう時、素直に頼れる相手がいない事に気づく。
サークルにも入ったし、バイト仲間もいるし、それ以外にも知り合った大学の友達もいる。
けど、なんだろう、こういった時に素直に甘えられない自分がいた。
寂しいとは思うのに、彼らを頼ろうとは思わないのだ。
この前、別れた彼女にいわれた一言を思い出す。
「なに考えているか分からない」
付き合った当初、彼女はオイラの事を優しいといった。
話も聞いてくれるし、私の行きたいところにも付き合ってくれるし、それとなく私の好きなものがなんなのかも探り当ててくれる。
一緒にいて居心地がいいと。
けど、段々と彼女は自分の事を話さなくなり、何かを要求する事もなくなってきた。
オイラは彼女の話が聞きたかったし、彼女の為にしてあげられることがあるのが楽しかった。必要とされる事の喜びを感じられて、尽くす事に夢中だったように思う。
けれど、ある日彼女から別れが告げられた。
オイラは彼女の言葉を飲み込めはしなかったけど、そう望むのならと理解を示した。
「仕方ないね」といった。
その事で彼女を怒らせて、最後にひっぱたかれたのはまだ痛々しい思い出だ。
なんでこんな事を思い出すんだろう?
とりとめもなく思考がゆらゆらして、体が弱っているから、いやな事を思い出すのだろうか。本当、高熱って最悪だ。
はははっと荒れた喉から、声にならない音がマスクに吸い込まれ、外には発せられない。
そう、外には発せられないのだ。
オイラの本音は。
相手のことを慮り、相手の為に言葉を紡ぎ、相手の為に動き、相手の為に作り上げ、相手の為に自分を捧げるのだ。
オイラはそうやってしか生きてこられない。
必要とされたい。
オイラはただそれだけを求めている。
だから、誰かに自分の弱みや弱音をはけない。今みたいな情けない姿をみせる事なんてできない。そんな事をしてしまったら自分が不要だと思われるかもしれない。
また、捨てられるかもしれない。
あんな想いをするくらいなら、死んだ方がマシだ。
短絡的な思考すぎて、簡単に死ぬなんてできないくせに、こんな自分がいやになる。
外では上品で家では家庭内暴力の耐えない夫、それに耐える妻、妹と二人でいつ明けるのかわからない長い夜をすごすオイラ。母親に対してのいきすぎた暴力、体が勝手に父親に向かい、オイラも殴られるようになる。
少したって妹を連れて蒸発した母親。
取り残された父と息子。
その後の事は思い出したくない。
記憶が断片的になる。
自分の存在が細切れになって、どんな子どもだったのかちゃんと思い出せない。
ただいつも休日が怖くて、ただ怖くて、逃げ道がなくて、何故一緒に連れて行ってくれなかったんだと思う自分がみじめで、痛みと恐怖で、チカチカと頭の中に赤と黒の光が明滅する。
そして、オイラはそんな父親にも捨てられた。
ドアは開かず、窓は密閉された状態で。
そこからどうやって出てこれたのか分からない。
思い出せない。
オイラを養子として引き取った母方の叔母――今の母親は「思い出さなくていい」といった。
叔母がオイラを人間にしてくれた。
感謝しきれないものがある。
叔母だけが一身にオイラを愛してくれた。
だけど、その為に犠牲にしたものが叔母にはある。
時間だ。
とてもかけがえのない時間だ。
本来なら伴侶となる人ができて、自分の子どもを育てていく事ができた時間だ。
オイラをひきとることで当時の彼氏と別れた事も知っている。
けれどオイラが高校時代に叔母には新しい彼氏ができたのをオイラは知った。
だから、家を出るべきだと思った。
これ以上は駄目だろうと思ったのだ。これ以上重荷になるわけにはいかないと、これ以上甘えるわけにはいかないと。
ーー違う。
ーー違うな。
オイラは叔母に不要だと思われたくなかった。
新しい彼氏ができて、その人とうまくいって、具体的に結婚の話にまですすもうとした時にオイラが邪魔になるなんて思われたら、叔母にそう思われたりしたら、気が狂ってしまう。
だからオイラは昼夜なく必死で勉強した。
奨学金ではいれる大学に受かり、家賃と生活費もバイト代から支払うようにした。
今、オイラはかつてなく自由だ。
誰かに束縛されるわけでもなく、誰かを束縛する存在でもない。
けれど、生き方が変えられない。
どうしても駄目だ。
この世界での自分の居場所がみつけられない。
今でもまだ父親に閉じ込められたあの部屋の中にいるみたいに思えてくる。
分かってる。
これは全部熱のせいだ。
高熱を発したからこんな風に思ってしまうのだ。
叔母--母親に甘えたいなんて思ってしまったのも、そのせいだ。
だから、大丈夫。
病院にいって解熱の注射をうってもらって、薬をもらい、ゆっくり寝たら、大丈夫。
オイラは大丈夫。
まだ生きている。
本当は死にたくなんてないんだから。
大丈夫。大丈夫。大丈夫……。