バスと僕とブログ
よく揺れるバスに揺られながら、朝晩の通勤に日々揺られている。
グルグル視界が回るほどではないけど、多少胃の中はグルグルして、気持ち悪くなって喉がグルグルするので唾を飲み込む。
子どものころから乗り物酔いしやすい性質で、あの頃は車に乗るたびに気分が悪くなって、頭痛がして、泣き叫び、周りの大人のヒンシュクを買っていた。
ある意味感じやすい子で、物事の常識に照らされた様な集団行動が特に苦手な子だったように思う。
いつも人から少しはみ出しながら生きてきた。何かの出来事が起こるたびに心は揺られ、体は軋む。
幼い頃は誰よりも食べるのが遅く、誰よりも着替えるのが遅かった。
そのたびに周りのペースと理解においつかず、頭の中は常にグルグルしていたように思う。
物事を言葉にするのはうまくなくて、そういった自分を許してくれる親でもなくて、なのに体だけは人一倍大きい、そんな奴。
グズでノロマで協調性がない。
そんな頃の自分を結婚してバスで通勤するようになって思い出すようになった。
自分で車も運転するようになって、車酔いはマシになったと思ったのに、この年になってぶり返すなんて思ってもみなかった。
自分は今や定職について、組織の中に身を置き、なんとか社会の中で日々、息づけるようになった。
協調して仕事をすすめ、結婚して、家も買って、今は一人じゃない。
子ども時代の僕を知る人からしたら、「ちゃんとした大人になったね」と言ってくれるのかもしれない。
けどーー
グズでノロマで協調性がない僕。
あの頃、僕がそうだったのは他の事に人一倍気をとられていたからだ。
日々、目の前にある事が、近くて、大きくて、全て色づいてみえた。
でも自分が感じている事を思っている事を当たり前の日常の中から切り取って、それを誰かに伝える術をもたなかった。
自分が何を感じて笑い、怒り、泣き、自分にとってのこの世界の色彩を誰かに知ってほしかった。
あの頃の自分が本当に伝えたかった事が今の自分は形にできているのだろうか?
あの頃の延長戦上にたって、自分の気持ちと感情に地続きになっているのだろうか?
今あの頃の自分が自分の事をみて一体どんな気持ちになるのだろうか?
妥協して協調したふりをして、自分を騙して慣らして、「世間の常識」という蜃気楼みたいなモノサシに照らし合わせて生きている。
まっすぐ生きているつもりで、グルグル生きてきたグズでノロマで協調性のない自分を矯正して、今の自分がいる。
まっすぐ?
一体どこに向かってまっすぐ生きているつもりなんだろうか?
答えは分かりきっていて、だから僕は今日からブログを書き始める事にした。